あらかじめ

「片付ける」という行為が嫌いだ。

 ……などと言ってしまうと、所謂「片付けられない女」 で汚部屋に住んでいるという誤解を招きそうだが、決してそうではない。私の書斎を見たならば「モノカキがこんなに整理整頓された部屋で仕事しているの!?」と驚かれるかもしれない。

あらかじめ1 
 坂口安吾の有名な書斎写真のように、床は丸めた原稿用紙で埋め尽くされ……と想像する人も多いだろう。 ところが、私はもともと散らかさない人なのだ。出したものは元の位置に戻す。これを習慣づけているから、部屋が散らかることはない。

 元の位置に戻す。なぜそうするのかというと、私は片付けるという行為が嫌いだからだ。出したものを違う場所に置くか、あった場所に戻すか。どちらにしても「どこかに置く」わけだから、労力としては同じはずだ。ならば元の場所に戻せばよい。そうすれば「片付ける」というくだらない時間をあとからいちいち作らずに済む。要は時間がもったいないのだ。人生の限られた時間をそんなつまらないことに使いたくはない。ある程度の歳からそう思うようになった。

 予防である。予め防ぐのだ。片付けなくて済むように、最初から散らかさない。予防予防。予め。あらかじめ。

 ところで私はこの「あらかじめ」という言葉が気になっている。説明するまでもないが「前もってやっておく」という意味だ。
あらかじめ2 広辞苑第四版には “結果を見越して、その事がおこる前から。まえもって。かねて。” とある。この言葉、消極的な語と合わせるとやたらと切なくなる。だから気になって仕方がないのだ。

あらかじめ3
 あらかじめ絶望しておく――あとで確実に絶望するのだから。
 あらかじめ恥じておく――きっと恥をかくのだから。
 あらかじめ嫌っておく――どうせ嫌悪を抱くのだから。
 あらかじめ嫌われておく――どのみち別れが来るのだから。

 織田作之助は作品『螢』で、主人公登勢にこの性格を与えた。登勢は “お前のように耳の肉のうすい女は総じて不運になりやすいものだ” と伯父から言われ、その時から “もう自分のゆくすえというものをいつどんな場合にもあらかじめ諦めておく習しがついた” のだった。
 彼女はあらかじめ諦めているので、嫁ぎ先で不幸でも笑っていた。幸運なときも未来に期待をしなかった。最後に絶望的な出来事があるのだが、彼女は一瞬自身の不幸を自覚するものの、翌日には誰よりも明るい声を発していた。あらかじめ諦めているからだ。その様は螢火のように切なく、健気で、儚く、美しい。 “暗がりの中をしずかに流れて行く水にはや遠い諦めをうつした” の一文には溜息が出る。

 あらかじめは切ない。
 そんなことを考える。

 今日も私は片付けなくていいように、出したものはあらかじめ元の位置に戻す。これはネガティブな要素を含んでいないはずで、なんら切ないことはない。けれども、あらかじめ諦めておいたり、あらかじめ絶望しておいたり、あらかじめ恥じておいたり、あらかじめ嫌っておいたりする行為に思いを馳せると――ひょっとして、私もたまらなく切ない「あらかじめ行為」をしているのだろうかと脳裏をかすめ、なんだか落ち着きを失うのだった。(了)