円形脱毛症

 ハゲ―。
 こんなに面白悲しい響きを持った言葉が他にあるだろうか。あるとすれば、それは「ぢ」くらいのものだ。
 病気と伴っての脱毛は別だが、ハゲそれ自体は生命にかかわるような疾患ではない。なのになぜ、人はハゲることを極度に嫌がるのか。
 誤解のないように最初に言っておく。私はハゲの人をからかっているのではない。私自身、今、「ハゲ」なのだ。だから、ハゲについて考えたのだ。

 今、後頭部がはげている。わりと大きい円形脱毛だ。しかも2カ所。発見した時の驚きと悲しみといったら、地球の終わりが来たかと思うくらいのものであった。たかが円形脱毛と思われるかも知れないが、その恐怖はハゲを経験した人間でなければ分からないだろう。発見後も櫛を入れるたびに抜けるのだ。このままどんどん広がっていくのではないか。ふと気が付くと、髪の毛のことばかり考えている自分。

 私は腰が隠れるほどの長髪である。自分で言うのもなんだが、きれいなストレートだ。それがいきなりハゲ。なんという落差だろうか。原因は、プライベートでもろもろな劇的変化があったからだと思われる。

 それはさておき、ハゲというのは単なる個人差だ。肌の色がそれぞれ違い、身長が皆違い、声が、体質が・・・・といった程度の個人の差であるはずなのだ、毛の有無というのは。だが、恥ずかしい。たまらなく恥ずかしいのだ。生命にかかわらないものだからこそ、恥ずかしいのやも知れぬ。

 脱毛および脱毛症という病気の範疇に入るのかどうかさえあやしい症状が、なぜこれほどまでに恥ずかしく、忌み嫌われるのか。それはおそらく、人間が「動物」であることの証だろう。
 太古の昔、人間は自分たちの年齢を知る術がなかった。それ以前に暦がなかった。年齢など知る必要はなかった。生まれてからの年月などどうでもよく、大切だったのは個々からにじみ出ている生命力だったと考える。孔雀の羽の斑の数が異性に自分の魅力をアピールする武器であるのと同じく、毛髪の有無というのは自分の遺伝子を残すため、異性に魅力をアピールする大切な武器だったのだろう。
「自分は若いですよ」
「精力絶倫だい!」
「素敵な子孫が残せるよ」
 等々のメッセージ発信だった。つまり、ハゲというのは、子孫を残せない可能性をはらんだ深刻な現象だったのだ!
円脱

 生命を脅かす問題ではない「ハゲ」。ハゲが現代社会においても嫌忌されるのは、人類に組み込まれた遺伝子プログラムのせいだろう。これだけ文明が進んでも、そのような原始的な部分で翻弄されてしまう自分を含む人類。自然界の一員であるということを再認識させられてしまう。

 こんなことに思いを巡らせたところで、私のハゲは直らない。さらに悪化するやも知れぬ。だが円形脱毛症になり、自分は意外とデリケートなのだということを知った。

 それが今回の円形脱毛の収穫だ。とりあえず収穫はあったのだ。
 と自分の気持ちに強引に決着をつけ、よしとしておこう。 (了)