■消えゆく雅(みやび) 子どもの頃は、ブリキの行李(こうり)で衣替えをしていた記憶がある。行李が押し入れに入っていて、時期がくるとたんすの中身を入れ替える。 若い世代では「行李」を見たことも聞いたこともない方もいるだろう。今で言うところの、プラスティックの「収納ケース」「引き出し」 に該当するシロモノだ。私はブリキしか知らないけれど、ブリキの前は主に竹製だったようだ。これまた風流。 こういった雅なモノや風習は、気付くとなくなっている感じがする。劇的に消えるのではなく、いつの間にか。「あれ? そういえば……いつのまに?」と。
子どものころは行李を「こーり」と音だけで認識していた。初めて字面で「行李」と見たときにピンとこなかった。言葉とモノがつながったとき、「行李ってこーりのことかあ!」と無邪気に喜んだものだった。(※行李は「こーり」ではなく「こうり」です) お食事券と汚職事件。 これらの語に対する思い違いと微妙に重なる。音から来る思い込み。字面を見て初めて解ける謎。そのとき人は無邪気に喜ぶ。 ■陰翳礼讃
うーん、いいねえ。陰翳の美。 こういう厠がある家に行李はよく似合うのだろう。洋式水洗トイレでは無理である。 (厠の思い出……) ちなみに私の仕事部屋はどこを見ても洋。和のテイストはひとつもない。想像してみると、畳に文机も悪くないな。なにやら文豪っぽいではないか。でも畳と文机なのにPCを置いているのは趣に欠ける。かと言って今更手書きには戻れない。やはり私の部屋は洋でつらぬくしかない。 今時は、畳の部屋がないお宅も沢山あるのだろう。そうして気付けば 「あれ? そういえば……いつのまに?」と和室自体が日本からなくなっている日が来るのかもしれない。寂しいことよのう。 自分は「洋」で生きているくせに「和」がなくなると、寂しく感じてしまう。思い起こせば成人式も振袖なんて着なかったし、浴衣すら持っていない。車も酒も洋モノ。ソファにベッドにガーデニング。それからそれから……。 西洋かぶれでなくとも、洋にどっぷり。 それでもやはり雅なものがずっと生き続けて欲しい―― そんな身勝手なことを思う、雅な衣替えの日だ。(了) |