大晦日。 どこを区切りだと考えるかだけの話だ。私は仕事柄徹夜も多く、寝るのは「2日に1回ペース」を続ける時もある。そうなると、2日間が1日の区切り的な感覚になり、もう何日なのか何曜日なのか朝なのか夜なのか分からなくなることもしばしば。分からない状態でも問題ない時はそのまま過ごすので、何日経過しているのかさっぱり。 こんなこともある。今の時期だと朝の5時も夕方の5時も暗いでしょ? 目覚めて時計を見ると針は5時を指していて、外は暗い。う~ん、今は朝の5時なのか、夕方の5時なのか。そんなときはテレビをつけてみたり、PCの表示を見たりして確認。私は一日がどこからどこまでなのか良く分からない阿呆なのら。ぶっちゃけ、こんな私だから、大晦日もよく分からないのら。 もう、私は私の区切りでいくよ? 私は私の「一日」「一年」でいくよ? ダメだと言われてもいくよ!!
しかし、暦は天の運行で決まっているのだし、それは人間という動物のバイオリズムにも影響があるとも思う。五節句や二十四節気なども意味のあることだと思ってはいる。 新年、月初、週明けなどのいいところは、「区切り」としてとらえやすいところだろうか。リセットしたり、目標を立てたりするのに適している。区切りは毎朝でもいいのだが「昨日までのことは忘れて今日はやるぞ!」と毎朝毎朝思える人も少ないだろう。人は分かりやすい区切りがあると心新たに出発しやすいものだ。 今年も無事過ごせた、健康だった等と思い返してみるのもいいことだ。年頭に目標を立てて年末に反省したり感謝したり。ゴールのないマラソンはやる気も起きないもんね。 そうだ、お礼を言うのにも適している。今年もお世話になりました。なんにもないときにはお礼って言いにくいものね、感謝はしていても。 年間の行事をきちんと行う家庭に育った子どもは家族との思い出が増えるし、風習も自然と覚えられるし、これまたとてもいいことだ。 私の理想的な年末の過ごし方は、そうだな、部屋でひとり音楽でも聞きながら、もしくは除夜の鐘に耳を澄まし、ボンベイでもちびちびやることかしら。ソファに寝転がって、詩集を開くのもいいかもしれない。 やっぱりいつも通りが理想なのかな。一日の区切り、ひいては一年の区切りがよく分からないからいつも通りになってしまっても仕方がない。
とかなんとか言いつつも、そんな過ごし方はしないと思う。 私は例年通り、年末年始の空気に自然と身を委ねることになるのだろう。「ゆく年くる年」を見たり、除夜の鐘を聞いたり、年越し蕎麦を食べたり、初詣に行ったりするのだろう。なんとなくそうやって、めでたい感じで過ごすのだろう。 友達でも恋人でも家族でも、大切な人と過ごせば年末年始に限らずどんな行事だって楽しいのだ。なんだかんだと屁理屈をこねたところで、結局は単純な話なのだ。興味があるとかないとか、そんなことはどうだっていいのだ。結局は愛なのだ。愛ってなんなのかよくわからないけれど、でもやっぱり愛だと思う。 ……区切りの日にそんなことをつらつらと考える。 来る年が全ての人にとって佳き年でありますように。皆が愛に満ちた年越しを迎えられますように。そして、来年こそは一日の区切りが分かるお利口な私になれますように。(了) |