名前と言霊

ながみか新聞

 なんとなく気付いている方もまったく気付いていない方もいるだろうが、いずれにしても、このコラムを読んだその日から気になって仕方がなくなるであろうことをお教えしたい。

 それは、小林製薬のネーミングについてである。小林製薬の製品名は駄洒落が入っているか、或いは使用方法がそのまま名前となっていることが多い。多いというより、例外なしと言っても過言ではないほどだ。

 例えば水虫薬の「ミズムズ」、シミを消す「ケシミン」、網戸掃除の「網戸きれいに仕上げ隊」、顔のてかりに「ノンギラス」、かかとの荒れに「なめらかかと」。
 そのままの製品名は「トイレその後に」「ポット洗浄中」その他数え上げればきりがない。製品より先にネーミングから作っているのではないかと疑いたくなる。
 いい名前ができたものだけ製品化をしているのではないか、などと思いたくもなる。もしくは駄洒落が浮かばなかったときにはそのまんまの名前でいく、というきまりがあるのかもしれない。

 さあ、今日からあなたも、小林製薬のCMを目にする度にそのネーミングがどうしようもなく気になってしまうことだろう。

 言葉には「言霊」が宿っている。
 説明するまでもないが、言霊とは言葉に宿る霊威のことである。霊威が働いて言葉どおりの事象がもたらされる。万葉集には「言霊のたすくる国ぞ」「言霊の幸ふ国」とあり、わが国は言霊の働きによって幸福がもたらされると述べられている。日本のこういったアニミズムが私は大好きだ。

 欧米人は表情豊かに身体まで動かして言葉を発する。それに対し、日本は表情が乏しいなどと言われるが、とんでもない話だ。成長の枝を伸ばした方向が違うだけなのだ。日本は言語が発達し、言葉の表情が豊かなのだ。日本人は大振りのジェスチャーなんぞしなくても、顔の筋肉を大げさに動かさなくても、十分に感情を表現できるだけの言語を持ち合わせている。誇るべき文化だ。だからこそ、言霊という美しい思想も生まれたのだろう。

 名前は記号でしかない、と思っていた時期が私にはあった。モノを判別するための呼称にすぎない、と。例えば、私ひとりとってみても、沢山の名前がある。ある時代の友人は私のことを「ながみか」と呼ぶし、作家仲間は「みかこさん」と呼ぶ。甥っ子姪っ子は「おねえちゃん」と呼び、恋人は……と、これは秘密。
 ともあれ、色んな人に色んな呼ばれ方をするが、私は私。誰かに変わるわけではない。だから名前なんて相対関係を表す呼称でしかないと思っていた。呼び方は関係性を表すだけのものだと。
 しかしそれは大きな間違いで、私は甥姪と接し「おねえちゃん」と呼ばれた瞬間「おねえちゃん」の顔になる。「おねえちゃん」が発言する。決して作家としての顔が出てくることはない。
 どこが、私は私、だ。明らかに別人になっているではないか。もちろん全て私の中にあるものだし、性格などは相対的なものだけれど。

 名前について面白い話がある。
 ヒマラヤのとある民族は今も魔物退治の儀式を行っているという。召喚した魔物をどうやって退治するのかというと、“魔物の名前を呼ぶ”だけなのだそうだ。それだけで魔物は消滅するらしい。この話を聞かせてくれた民俗学者は、当時「名前は記号である」と思っていた私に「名前は全てである」と断言した。

 ちなみに私は「ながたみかこ」というのは素晴らしい名前だと思っている。「ながた」と「みかこ」を突合させていくと「な」と「み」。「が」と「か」。「た」と「こ」。それぞれが良く似た文字で反復し、無限大(∞)をイメージさせる。画家である友人が「まるで呪文のような名前だ」とも言った。私のこの名前には、無限の可能性が・・・言霊が宿っていると信じている。

 さて、小林製薬だ。小林製薬の製品名にはどんな言霊が宿っているのだろう。「網戸きれいに仕上げ隊」。これを使えばもちろん網戸は美しくなるだろう。しかしそれは霊妙の働きなどではない。
――それを使って掃除をしていると、背後に気配を感じる。振り向くと、お掃除隊がずらりと並んでいる。隊員たちは一言も言葉を発することなく網戸の掃除をする。きれいに仕上がったところで、お掃除隊は煙のように姿を消す――
 これこそ霊威だ。こんな現象が表れて欲しいが無理だろうか。

 表れないとも言い切れない。我が日本は「言霊のたすくる国」であり、「言霊の幸ふ国」なのだから。(了)