蒐集の法則

 読者諸賢はコレクションがおありだろうか。
 「ない」とおっしゃる方の為に、有名な哲学者の言葉を紹介する。

『人は誰でも何かを集めている。否、という者はそれに気付いていないだけである。例えば、知らず、無情のものを集めてはいないか。幸せになれる要素を手に入れ、集め、満足できずに、またため込んでいく。それは幸福のコレクターである』

 いかがなものか。「幸福」ではないにせよ、「知識」であったり「縁故」であったりと気付かないうちに形のないものを集めてしまっていることもあるのだ。
 ちなみに、この名言を吐いた歴史に名を残す哲学者の名前は「ながたみかこ」である。……すみません。

 個人のコレクションは、大抵、他人から見ればくだらないものである。外国のコインであったり、切手・切符の類であったり、時計、ライター、ピアス、ブリキのおもちゃ、フィギュア人形、チョコレートの包み紙…等々。余談だが、自分の鼻くそを集めている人がテレビに出演していたことがある。ボール状に固めているそうだ。

 他人から見て価値あるコレクションも、当然ある。見た人がコレクション内容に興味のある場合。あと、社会的・歴史的・学術的に真価を問われても通用するものを揃えている場合。これらは個人のコレクションとは言わない。他人と共有できるものだからだ。
 見せ惜しみ、ひとりで楽しむというのがコレクターの常である。

 私も、人から見ればくだらないものを集めてしまっている。きれいな石・完璧な形のまつぼっくり・珍しい模様のビー玉・ガラスのかけら…他色々。ああ、くだらない。
 いつ頃から集めだしたのか記憶はあいまいである。ただ、これだけはハッキリしている。始めは気に入ったものをひとつ手に入れただけなのだ。そのあと、それに関連するもの、その分野に入るものが気になりだす。つい、買ってしまう。そしてまた買ってしまう。あとは数を増すばかり。
 そう、始めの一個が曲者なのだ。手に入れた瞬間、それが引き金になり深みにはまっていく。始めの一個さえ手にしなければいいのだが、これもまたコレクターの常であろう。
―― 私はこれを「蒐集の法則」と名付けることにする。
 
 蒐集の法則が働くと、集めねばならぬという義務感さえ湧いてくる。使命感といってもいいやも知れぬ。これもこの法則の一部である。
 使命を果たすべく蒐集活動を展開していると、やがて人目につくようになる。家を訪れる者の目を引くからだ。すると、来訪者は(ああ、この人こういうものが好きなのネ)と認識し、お土産やプレゼント等にその種のものを贈ったりする。これも法則の一部だが、これには困った法則も付随してくる。

 コレクターとしては、なんでもいいからその類のものを集めているわけではない。人から見れば同じように見えるものでも、コレクターの目から見れば大きく違う。こだわりがあるのだ。なのに、コレクターにとって価値のない・触手を動かされないようなものであっても同種とみなされ、贈られてしまうのだ。しかし、その場合でも感激した素振りだけは忘れてはいけない。「これは違います」などと失礼なことを言ってはならない。
 私自身、かわいいガラス細工を贈られて、戸惑ったことがある。ガラスのかけらもガラス製品も大好きなのだが、可愛いモノが好きなわけではないのだ。どこか退廃的な香りのするモノに限るのだ。いただいたものは飾られることはなく、しまい込んだままとなってしまった。 蒐集の法則

 ここで蒐集の法則を振り返ってみよう。
①ひとつ手に入れる 
②その種のものが気になりだす 
③ふたつ目を入手 
④使命感が沸く 
⑤人に知られる 
⑥人から贈られる
 これが一連の動きである。
 そこで、私はこの法則を応用して、金持ちになる方法を発見した。

 来訪者があるときを狙って、一万円札をずらりとコレクションラックに並べておく。 
 客人は(ああ、この人お金が好きなのネ)と認識する。
 その客人は、現金をプレゼントしてくれる。
 ……という筋書きだが、どうだろう。
 だがここには困った法則も付随してくるであろう。コレクターとしては、お金ならなんでもいいわけではなく福沢諭吉が印刷されたやつがいいのだが、勘違いされ、一円玉が一個贈られてしまったりする。
 その時も大いに喜び、「これは違います!」などと失礼なことは決して言わないでおこうと、堅く心に決めている。  (了)