雪景色の記憶

 どんなことであれ「初体験」というのは感慨深くめでたいことである。
 子どもの公園デビューなどもそうだし、初恋・初キス&付随する初色々。あはん。社会人になってからは初出社や初ボーナス。老いてからは初孫なども初体験だ。人は色んな初体験を経験しながら歳を重ねていく。
 「初」と表現されるものには「初夢」「初詣」「初雪」等、その年の最初を指す場合もある。しかし、「初」と「初体験」は重みが全く違う。

 私の中にある雪の思い出で一番古いものは小学校2~3年生くらいの出来事だ。それまでにも当然降っているだろうし、それなりに積もってもいたのだろうけど、記憶にはない。

 それは何年ぶりかの大雪だと言われた日で、朝起きると、見たこともないほど積もっていた。それでも、多分数センチ程度だったろうとは思うが、強烈なインパクトだった。初めての雪体験ではないだろうが、初めての積雪体験だったはずだ。
雪景色の記憶1
(『みつけてたまタマ』作・絵ながたみかこ/講談社)

 雪国の人たちは普通に雪合戦を楽しんだりかまくらを作ったりして育つのだろうか。それとも銀世界が当たり前すぎると、逆にそんなもので遊んだりしないのかしら。
 ともあれ、西で生まれ育った私には数センチの積雪も珍しく、雪合戦等の経験はそれまでなかった。

 数センチであっても、積雪は子どもたちをハイにした。学校で初めて雪合戦なるものが行われた。校舎の裏庭だったな。はっきりと覚えている。
 みんな雪を丸めて投げた。そこで私たちは驚くこととなる。雪で作った玉は、石のように固いのだ。テレビや漫画などで見る雪合戦は、玉が人に当たるとくだけ散るものだった。玉はパフッとくだけ、当たっても「イテテ」くらいで済むという印象。
 だが実際は違った。水分を多含む雪は、握られるとがっちり固くなる。そんなことを知らない子どもたちは雪玉を作ってガンガン投げた。そして顔に命中した子から順に、大泣きしたり流血したりしたものだった。
雪景色の記憶2
「これは危険だ」 「ふわっと握らなくてはいけない」とすぐに学んだ子どもたちは、雪を固めることなくちょっと握った程度で投げるようになったが、それでは相手まで届くはずもなく、白い地面に力なく落ちた。そんな初雪合戦はなんだか白けて早々に終わってしまったっけ。
 でも、こんな風に思い出が残るのは素敵なことだと思う。「○○デビュー」というような、人生初の体験は強烈な印象が残っていてこそ、なのだ。「初体験」というのは感慨深くめでたいことなのだから。

雪景色の記憶3
 放送作家の三谷幸喜氏が『オンリー・ミー』というエッセイ集の中で、海水浴について書いている。

――少年時代を振り返って残念なのは、「初めて何かを体験した時の感動」というものを、ほとんど覚えていないということ。例えば、初めて海を見たとき驚きや、初めて動物園に行った時の衝撃、など、記憶力はいいほうではないが、それにしても全く覚えていない――『オンリー・ミー』(幻冬舎文庫より

 彼は自分の子どもにはそういった記憶をきちんと残したいと考え、海水浴へ連れて行くのは物心がついてから、そして、当日も目隠しなどして、直前まで海を見せないでおきたい云々……と。

私も初めての海水浴の記憶がない。アルバムをめくると2歳くらいで海デビューしていることが分かるのだが、その年齢では当然のごとく全く記憶にない。
 もし物心ついてから海と対峙していたとしたら、きっと鮮明に覚えていたのだろう。初積雪が、初雪合戦が鮮明に記憶に刻まれているように。

 雪が降るたびに、私は初雪合戦を思い出す。雪玉を「石のように危険なものだ」と知ったことを。同級生が流血し、積もった雪に落ちた血を見やり「氷イチゴみたいやなあ。でもこれはイチゴ味じゃなくて、鉄の味なんやろなあ」とぼんやり考えたことを。(了)