運命のカランコロン

◆本棚を見られる恥ずかしさ
 他人に本棚を見られるのは脳内を見られているようで恥ずかしい、とはよく言われることだ。本棚にはその人の趣味嗜好が現れる。好みが出るだけでなく、思考の流れなどが追える場合だってある。

 そう考えると、友達でも恋人でも自分との相性を知るには、まず本棚を見せ合うのが手っ取り早い。似たような傾向の書物に親しんでいるのならば相性がいいはずだ。書棚を見せ合わなくても、好みの本について話を交わせば分かる・感じるはずだ。
 また、似ていなくても、相手の読書傾向に嫌悪を感じなければ良いとも言えるだろう。似ていない方が、考え方が広がるとも言えるからだ。

 書棚は脳味噌。
 考える書棚だ。

◆レコード・CDラックを見られる恥ずかしさ
 クリエイティブなもの。文学、絵画、音楽、舞踊……etc。色々あるが、その中で一番「魂」に近い場所にあるのは音楽ではないかと考える。

 音楽はくじけそうなとき、またはくじけたとき「でも頑張るぞぃ」などと即効で決意させてくれる力を持っている。これが文学ではなかなか難しい。追い打ちをかけるように、とことん落ちていくことも多い。(あ、自己啓発系は問題外ね。このあたりのことは語ると長くなるので、やめておくけども)
 未開の地の人たちが行う儀式に踊りや歌が必須なのも、それらが「魂」や「祈り」そのものだからだろう。
 本棚を見せ合うことにより考え方が分かるように、音楽ラックを見せ合えば相手の魂が見えるような気がするのだ。

 音楽は魂。
 祈りは音楽。

 だから、書物(思考)と音楽(魂)の両方の好みが合えば、恋に落ちるか親友となるか。もしくは似すぎているために毛嫌いするかのどれかなのだ。と、結論付けてみる。

◆運命のカランコロン
 ところで、女性が発する言葉に「彼と出会ったとき、鐘の音が聞こえた」というのがある。実際、数名の友人がこれを言っていた。
 私は聞こえたことがないので「鐘の音」は比喩だと思っていた。しかし、どうも違うようなのだ。
 「要は運命を感じたってことでしょ?」と聞いてみても「いや、『音』として聞こえた」と皆言うのだ。おそらく、私の友人のみならず、世の女性たちも「音」を聞いた経験のある人はいるのだろう。

 友人たちの証言から得たことだが、その「音」は人によって違うようだ。チャペルの鐘のような「カランコロン」だったり、福引で当たった時に鳴らす「ガランガラン!」だったり、太鼓のような「どどーん」だったり。いずれにしても音の違いこそあれ、聴覚に訴えるものがあるらしい。

 ここから考えても、やはり、音は魂なのではないか。……ん? ちと理論が飛躍しすぎたか?

◆恋の賞味期限
 運命とは思いこみのことも多い。普通、恋愛感情は2~3年しか持たないという。恋心は運動と似ていて、ドキドキ感やワクワク感は身体に負担をかけるらしい。長く続いていくと健康を害するので動物の自衛本能として恋は2~3年で冷める、というのが定説だ。
 カランコロンが聞こえても2~3年。ほんじゃ、別に聞こえなくてもいいじゃんか。思考や魂など共鳴しあわなくとも結べる絆もあり、幸せに生きていくことだってできる。

 でも。
 でも。
 どんな音なのかな、カランコロン。

 秋の空を見上げる。日に日に澄み渡る空気を吸い込み、胸の前で手を組んでみる。
 ――どうか、全ての人が幸せでありますように。
 ……などと私らしくないことを半ば本気で祈ってみる、どこかネジの緩んだ今秋だ。(了)