往来 去来

 年末と言えば、大掃除や仕事納めや除夜の鐘などが思い浮かぶ。テレビ番組では? と問われたら長寿番組の「ゆく年くる年」だろうか。この番組の内容はよく知らないのだが、タイトルから連想することがある。「ゆく」「くる」という言葉から「来るもの拒まず去るもの追わず」ということわざが頭に浮かぶのだ。

 このことわざはもともと孟子が弟子を入門させるときの心得、「往者不追、来者不拒」(尽心・下)から出た言葉。正しくは、「往く者は追わず、来たる者は拒まず」である。「往く者」「来たる者」となると、さらに「ゆく年くる年」とイメージが重なる。
往来 去来1

 孟子自身はともかくとして、「来るもの拒まず去るもの追わず」という言葉を実際に口にしている人ほど、心では拒んでいるし追ってもいると感じる。本当にその姿勢を貫き、それが自然体であったなのならば、いちいちそんな言葉を口にしないと思うのだ。意識しなくとも執着せずにいられるはずで、口に上ること自体おかしいのだ。口にすることで自分を納得させているようにしか見えない。

  “孟子自身はともかくとして”と前置きをしたが、実は彼もまたそうであったのかもしれない。襲いかかる拒絶反応を退治するために、そして絡みつく未練を捨てるために、文字に著したという考え方だってできる。去りゆく弟子の背中を見ながら(往者不追、来者不拒)と思ったのではないだろうか。この語はなんだか祈りのような気がしてしまうのだ。そうでありたいという祈り。

 ゆく年くる年。
 ゆく年追わず、くる年拒まず――。
 前述の通り、口に出すくらいだから容易なことではない。意識しなくてはできないことなのだ。しかし、苦につけ楽につけ、執着などあっては新しい年など迎えられない。釈迦も大無量寿経で「独り来たり独り去りて一つも随う者なし」と説いている。

 苦も楽も共に捨てて、新しい苦と楽を受け入れる。そうしよう。そう決意して新年を迎えよう。などと、珍しく殊勝なことを考えて、珍しく立派クサイことを綴ってみた。珍しすぎて大晦日が雨になったら申し訳ない限りである。(了)