ひとりの美しい女がいた。名前は小池恵子。勤務先は小さな会社の会計課だった。 薄給である彼女は毎日、町に食い逃げに行く。それは趣味と実益を兼ね備えた行為だった。食い逃げに行っているだけだというのに「先週どうしてたの?」などと人に聞かれると「私、毎日町にいましたわ」と見栄を張ってしまうのだった。
春に地方から転勤になってきた課長は、ものすごい遺産を持つという噂があった。ワンマンのせいか旦那と呼ばれているが、本名は土井孝志という。孝志は、恵子のことを気に入っていた。いつも「彼氏はできたの?」などとと問いただす。 セクハラだわ、と腹が立つが、上司でもあるし、なにせ大金持ちだという噂。しかも独身だ。(大胆、変態だ)と思いつつも、恵子は(旦那、セクハラは癖なんだ)と孝志を許すことにしていた。本音は(いるだけでけだるい)男だったけれども。
孝志はある日、恵子を「相談があるから」とランチに誘った。しかし、相談とはとんだ嘘。孝志は恵子に交際を申し込もうと思っていたのだった。いきなりデートに誘うわけにはいかないが、なんとか作りたい気の利いた理屈。そこで「相談」などと言ってしまったのだった。 恵子は高級料理を期待してOKしたが、行き先はファーストフード店だった。生まれて始めて昼時に気取る日になるかと思っていたのに。 孝志はハンバーガーを頬張りながら、恵子に「好きだ」と連発した。 「俺のこと、孝志って呼ぶ仲になってくれよ、頼む」 その勢いに押されて、恵子は呟いた。 「仕方ないな、孝志」 金持ちの癖に気取らない、こんな人を選ぶべきなのかもしれない。恵子はそう思った。 「あなたと一緒になるべきだって予感がするわ」 「予感かよ」 二人は付き合いはじめ、すぐ深い関係になった。 孝志は興奮すると田舎の言葉が出てしまい「ベルトをとるべ」などと口走ってしまうが、恵子は気にも留めずに「あなたったら立ったなあ」ともらす。 羽毛布団、飛ぶ羽毛。 恵子は「長いがな」不満を見せ、孝志は「淡白なんだな」といい女の難を言い。
二人は結婚の約束をした。 「新婚旅行はどこに行きたい?」 「スェーデンでーぇす」 「そうか、わかった」と答えた孝志だったが、数日後見せたチケットは熱海行き。恵子は孝志のむなぐらをムカつきつかむ。 「団体がいたんだ」 予約が取れなかったことに苦しい言い訳の孝志。恵子の剣幕に驚きつつも、怒りを理解。ポケットから小さな箱を出して、恵子に手渡した。 「おわび、指輪を」 二人は結婚し、恵子は寿退職した。 結婚してから分かったことがある。孝志はすごい遺産をもっているわけではなかった。田舎に二束三文の土地を沢山持っている、というだけのことだった。そのことを問いただすと、孝志は「まさか! 遺産審査いかさま?!」と言ってその場を逃げる。 孝志は孝志で、毎日町でショッピングを楽しんでいるというような素振りを見せた恵子のことを金持ちだと思い込んでいた。しかし、そのあても外れ、二人の間にはこんな会話が交わされるようになる。 「冷めたのね?」「金のためさ」 恵子はこのままではまずいと思った。このままいくと、少ない愛なくす。 友達に相談してみても冷めた夫婦仲のことなど「悩み、並みやな」と聞き流されてしまう。旦那がなんだ。女同士の愚痴は、いつもこの結論に達するだけだ。 しかし、やはりどこかで愛のある生活を求めている自分。時折、彼女はそんな自身を分析する。―悪あがき癖があるわーと。
金のある生活は夢と消え去ったばかりか、課長の安月給では、毎日の倹約を強いられた。孝志の弁当のおかずは大抵が今朝食べたサケ。もしくは二日は経っているだろう身の凍るお好み。おかずはなく、しめじ飯だけのときもある。 夕食は根こそぎ底値のときに買ったパックのクッパばかりが延々と続く。孝志はそんなものばかりでスタミナ満たす。肉を食べたいな、と思っても「カルビせびるか!」と目をむく恵子の顔が目に浮かぶ。 悲しい孝志は、メシがな……と流し目。それを聞いた恵子はすでに鬼です。家計簿をちらつかせて「赤字かあ」と嫌味をちらり。ローンが支払えないときには「一万円待ちい!」と言ってみたり、「ネクタイ、買いたくね?」と脅したり。そう、結婚してから一本もネクタイを買っていなかったのだ。 孝志は家計のために禁煙を誓っていたのに「今年禁煙、延期しとこ」とその気がないことも恵子を苛立たせた。
やがて、孝志は移動で故郷に戻った。昇給もあったので、ごくたまに外食できるようにもなった。外食といってもラーメンくらいにしておけばいいのに、見栄を張って寿司屋へ行ったりする。行き先は静かな田舎寿司。食べるものはいなり寿司ばかり。 でも、会計を気にして切り上げるので、いなり食べ足りない。となりの席の客が頼むトロ。恵子と孝志が流すのはヨダレだよ。ふたりのせめてもの夢は、今朝美味しいおでんで美味しいお酒。
しかし、環境が変わったのが良かったのか、二人の仲も少々回復の兆しを見せた。 ある日恵子は体調不良を感じた。 「なにか、いかんな」 病院に行ってみると、妊娠していることが分かった。早速、孝志の会社に電話を入れた。だが、孝志は出かけているときだった。会社に戻った孝志は同僚から「良い報せらしいよ」と伝えられた。 帰宅した孝志に恵子は告げた。 「産もおと思う…」 孝志は父親になる決心をし、静かにうなずいた。
あっという間に10ヶ月が経ち、元気な男の子が生まれた。命名、民夫。 「この子、あなたに似たなあ」 孝志は民夫を見た。 本当に似ている。自分の遺伝子をこの世に残せたと思うとなんだか不思議で、嬉しい。民夫は色白い。ここは恵子似だ。この子を立派に育てるぞ、と孝志は思った。
民夫は神童と呼ばれるほど出来のいい子だった。 まだ首も座っていない時期に、人を見ると「君は美紀」等と、人の名前を口にするのだ。孝志と恵子がケンカしているときにはこんなことを言う。 「だめだ、だめだ!」 そう言われると、二人はケンカをやめる他ない。民夫の存在はまさに、子はかすがい、だった。
民夫は小学校にあがる頃には「天才! 土井さんて!」と言われるようになっていた。町で空き巣が多数発生したとき、警察は手がかりをつかめずにいたというのに、事件現場にいた男をつかまえて、言い放った。 「やまさき、犯人はきさまや!」 山崎は自白した。これには警察も舌を巻いた。 テスト前でも「寝る! テスト捨てるね!」と言って早々と布団に入ってしまうというのに、必ず100点をとってきた。 教えたわけでもないのに礼儀も正しい。周囲の評判は上々だった。恵子に似たのであろう、おしりの形が可愛いという奥さん方もいた。 「なんてしつけいい子、いいケツしてんな」
恵子は「私たちの遺伝子は受け継がれなかったのかも」なんて冗談交じりに言ってみる。 「受け継がれたのは……死んでいる遺伝子?」 「否、遺伝子死んでいない!」 「あはは」 「うふふ」
民夫のお陰で、二人はこうして笑い合える仲になった。民夫はその様子をみて、ほっと胸をなでおろす。 仲良くキッチンに立つ両親の背中に、民夫はこれからも円満であって欲しいと願いを込めて「ヨロシクしろよ」と呟いたのだった。(了)
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