春には屍体と遊宴を

春には屍体と遊宴を1 友人と「正しい花見の仕方」について話し合ったことがある。結論を先に言うと「ゆっくり花を眺めるのではなく、どんちゃん騒ぎ・馬鹿騒ぎが正しいだろう」ということになった。理由は以下のようなことである。

 桜の花は美しい。しかし、長時間見つめていると恐怖に変わることがある。一面に咲き誇るさまに戦慄を覚えることがある。
 満開の桜は美しすぎるからだろうか。それとも、命の短い蝉が凄まじいほど鳴くように、桜の花も人の心を狂わせそうなほど激しく鳴いているのだろうか。満開時とは断末魔の時でもあるのだから、精神に食い込んでくるほど狂おしく鳴いていても不思議ではない。

春には屍体と遊宴を2

 ともあれ、真剣に花観賞していると精神に支障をきたしそうになる。よって「酒でも飲みながら適当にながめているのが正しい花見のやり方だろう」となったわけだ。

 そう、文人たちも述べているではないか。

 桜の樹の下には屍体が埋まっている!
 これは信じていいことなんだよ。何故って、桜の花があんなにも見事に咲くなんて信じられないことじゃないか。俺はあの美しさが信じられないので、この二三日不安だった。しかしいま、やっとわかるときが来た。桜の樹の下には屍体が埋まっている。これは信じていいことだ。(『桜の樹の下には』梶井基次郎)
春には屍体と遊宴を4
 主人公「俺」は爛漫と咲き乱れる桜に得体のしれない不安を感じ、憂鬱になり、空虚な気持になる。しかし、ハタと気づくのだ――桜の樹の下には馬や犬猫や人間の腐敗した屍体が埋まっていて、水晶のような液をたらしている。桜の根は屍体を蛸のように抱きかかえて、その液を吸い上げている――と。そうして得も言われぬ彼の不安はぬぐいさられたのだ。

春には屍体と遊宴を6

 桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。(『桜の森の満開の下』坂口安吾)

 桜の森が満開のときに足を踏み入れたら発狂してしまうと信じている山賊。満開の桜をさけていたけれど、ひょんなことから桜の下を通ってしまう。そのとき山賊の見た幻想。悪夢。

 満開の桜は罪だ。飲んでないと恐ろしくて花見なんぞできやしない――そう考えるが、正しい花見のやり方に従ったことはなく、これからもないであろう。いかなる理由でもどんちゃん騒ぎは嫌いである。物恐ろしいまでの美におびえながら満開の桜を見やるのだ、たとえ心に傷を負おうとも。(了)