作家が猫を好きな理由(わけ)。

■猫好きな作家たち
 吉野家派vsすき家派という戦いと、犬派vs猫派という戦いはおそらく人類が滅亡するまで続くと思われるが、作家という人種においては“犬好き”より“猫好き”の方が多いように思う。

 小説家のみならず、画家、漫画家等の芸術家肌の人たち。彼らはどうも猫を愛する傾向があるような気がしてならないのだ。そんな気がするのは私だけではないようで、読書家の知人も先日同じことを言っていた。

 猫好きで知られる作家、画家、写真家、漫画家等――梶井基次郎、内田百閒、萩原朔太郎、谷崎潤一郎、大佛次郎、高橋直子、藤田・小池夫妻、村松友視、金井美恵子、笙野頼子、山口マオ、大島弓子、小林まこと、荒木経惟、岩合光昭、藤田嗣治、竹久夢二……挙げればきりがない。

 時代もジャンルも無視して思いつくままに節操のない挙げ方をしてしまったが、お許しあれ

作家が猫を好きな理由(わけ)。1 

 当然、猫嫌いの作家もいるし、犬派の作家もいる。当たり前のことだ。夏目漱石や宮澤賢治が猫嫌いだったというのには驚かされるが、猫をモチーフにした作品を残したからと言って猫好きとは限らない。作品と人間性や思想は必ずしも一致しないからである。

 しかしここは 「広く見て、作家には猫好きさんが多いのではないか」 という考えを元に話を進めることにする。

 かく言う私も猫オタだ。野良を見るとしゃがみこみ、ニャーニャー言ったりストラップを揺らしたりして、なんとか引き寄せようとする猫オタだ。目ヤニをつけている野良を見ると、とっつかまえて薬を点眼したくなってしまう猫オタだ。全世界の猫たちを救いたいなどという傲慢な考えを持っていたりする猫オタだ。

 小さい頃からずっと犬と暮らしていたので「当たり前のように」犬が好きだった。猫のことをよく知らなかった、というのが正しいのだろう。
 今はyoutube等で、飼い主にしか見せないような猫の姿態をのぞくことができるが、一昔前は猫のあんなことやこんなことは、共に暮らしている者しか知り得ない秘められたものだったのだ。その点、犬には秘め事はあまりないように思う。開けっぴろげで大らかだワン。

 犬の可愛さもちゃんと知ってるよ。ってことで写真一枚。

作家が猫を好きな理由(わけ)。2

(13年程前、実家の犬と。私に一番なついてたさ~)

 ……あれ? なんかひとつ忘れてるような?
 そうだそうだ、吉野家派vsすき家派のことだ。まあ、その件については今はどうでもよろしい。

■作家と猫の類似性
 小説家、画家、漫画家等、この人種は人付き合いが苦手な場合が多い。少なくとも私の知っている人たちは(私自身も含め)殆どがそうだ。喋るのが苦手、人と会うのが苦手、団体行動が苦手……。自然とヒッキーへの道を辿る運命にある。

 だがこれらの困ったちゃんも、ひとたび自分の得意な媒体を通せば、いくらでも人と関われるという面を持っている。
 実際、私も今こうして文をつらつらと綴っているし、メールのやりとりなどは饒舌な位かもしれない。だから編集者等に「喋るのが苦手で……」と告げると「ええっ? どう考えてもそうは見えないですが?」などと驚かれてしまう。
 そう見えなくても、そうなのだ。大切なことは目に見えないのだ。サンテグジュペリ。
  人間関係が苦手な者にとっては、猫は良いパートナーとなる。程よい距離感を保ってくれる猫。基本的には群れない猫。近しい者にしか本音を見せない猫。猫と作家はとてもよく似ているのだ。作家は犬好きより猫好きが多いのは、このあたりの理由ではないかと考える。

 「同類相求む」という言葉がふと浮かぶ。団体行動が苦手と言いつつ、結局は似た者同士の猫と群れているということか。

 そうかもしれない。人は皆、寂しいのさ。


作家が猫を好きな理由(わけ)。3 (孤独なふりしてるけど……耳はこっちむいてますよ、姫)

■猫本への想ひと結論と
 猫好き作家による猫本は星の数ほどあるけれど、私もいつか猫本を出したいと密かに思っている。あ、今言っちゃったから密かではなくなったが。

 そうよ、その日の為の準備として。
 もっと猫のことをブログに書こう。先日からそう思い始めている。猫飼いにとっては「だよね」「うちもだよ」「どこの子も同じねえ」というような内容になるとは思うけれど。でも、世に出ている猫本はそういったものばかりだ。共感し合う、気持ちを共有し合う、そこが大事なのである。

作家が猫を好きな理由(わけ)。4

 少々脱線したが、総括しよう。作家が猫を好きな理由等だ。
「作家は自分と猫の類似性から猫好きになることが多い」「しかし、孤独を気取ったところで結局は猫と群れている」「作家にとって吉野家派かすき家派は、永遠にどうでもいいテーマだ」
  という3点が今回の結論である。(了)