残心


 「残心」という言葉を辞書で引くと、大抵はふたつの解釈が載っていると思う。ひとつは心残りや未練。もうひとつは武道において、攻撃後の反撃に備えての心構え……といった意味だ。現在においては意味が派生してしまっているが、もともとは後者が本来の意味で、源は禅心だという。

 私は高校時代、剣道部に属していた。今思えば、この手の類のこと――無・黙想・先(せん)を読む・礼…等々の禅につながるようなことを沢山やらされていた。訳も分からず、やっているふりをしていた。

 例えば、稽古に入る前、正座をして目を閉じる。3分間の黙想だ。黙想中は心を無にしなければならなかったのだと思う。しかし、頭の中では「はよー帰りたいなぁ」「帰りに買い物してこーっと!」「○○先輩かっこええなぁ」などと考えていたことは言うまでもない。

 残心についても、教えられた。特にそれは「形(かた)」と言われる稽古のときだ。木刀で向かい合い、打太刀の攻撃のあと止太刀が反撃する。その後双方動きを止めてにらみ合う(?)。残心の図である。

 茶道でも残心は大切だという。茶道においては、茶の湯が終わったあとの心がまえを指すらしい。
 茶祖といわれる紹鴎(じょうおう)は「器物とる手は軽く、置くときは、深い思いいれあれ」「なににしても、道具置きつける手は、恋しき人に別るると知れ」と教えている。残心のほうに重点を置き、行動に移しているのだ。そして、それは「恋しき人」と別れるようなものだと。

 しかし、そんなことは教えてもらってできることではないのだ。そもそも、知識ではなく智慧の範疇であり、説明などできるわけがない。自得するしかないわけで、フリだけしていても意味がない。大切なことはなんだってそうだ。自ら会得するしかないのだ。

 例えば――教えてもらわなくてもできる大切なこと――生まれたての赤ん坊が、母親の乳首をほおばる。泣いて異変を知らせる。寝返り、這い、歩く……大切なことは、教えてもらわなくてもできるようになっている。
 
 先日トイレの中で気付いたことがある。知らず「残心」を体現していたということだ。
 便座に腰掛ける。
 さあ、闘うぞと決意をする。
 きばる。
 戦闘中、頭の中は「無」である。
 終了。
その刹那、名残を惜しむかのような……まだ余韻に浸っているかのような……「アノ感覚」が訪れる。ことが終わった直後にすぐ腰をあげる人はいるまい。ほんの一瞬ではあるが誰しも余韻に浸っていると確信する。それは紹鴎のいうところの「恋しき人に別るると知れ」そのものなのではないか?
残心
 赤ん坊がオムツの中で脱糞している最中だと、見ているだけで「あ、してるな」とわかる。終わると、「あ、終わったな」と表情で分かる。きっとアノ感覚が訪れているからだ。それが表情に顕れているからだろう。残心は見ている者にも自然と伝わる。

 私は嬉しくなった。
 あれほど、体得が難しく思われた『残心』だが、とうに得られていたのだ。生まれると同時に、しかも脱糞時に、だ。 やはり大切なことは教えてもらわなくてもできるようになっているのだ。

 別に体得したいと願っていたわけではないが、こういうしょうもない理論を打ち立てるのが好きなのだ、私は。
 ああ、うんこよ、ありがとう。

 実は先ほどからトイレを我慢している。
 また何か、くだらない論理を思いつくかもしれないと淡い期待を抱きつつ、さあ、トイレに向かうとするか。(了)