(※これは私が回文作家を名乗る前、回文本を出版する前に書いたエッセイです) |
回文にはまっている。 回文とは、「私負けましたわ」「竹やぶ焼けた」等の、上から読んでも下から読んでも同じ文章、というアレである。有名なCMの「上から読んでも下から読んでも…」というヤツは回文ではない。念のため。
―ノーマル回文― 「いただいたよ! 鯛だ! 鯛!」 「三重勝ってっか? 恵美?」 「昼寝だ! 寝る日!!」 「住まいがない椎名がいます」 ―アブナイ回文― 「私と父としたわ…」 「遺体買いたい」 ―クサイ回文― 「臭い遺作」 「下痢した尻毛」 「尻穴有りし」 「おならだい! かいだら? ナオ」
……失礼。
言葉で遊ぶのはとても贅沢な行為だと思っている。 人類が最初に発した品詞は感動詞(感嘆詞)だといわれる。最後に生まれた品詞は、他の品詞から転じてできた接続詞だ。 井伏鱒二は“描写に接続詞はいらない”と喝破し、谷崎潤一郎は“接続詞は品位に乏しく優雅な味わいに欠ける”と言った。
たしかに、文章を書きなれていない人がたまに長文を綴ったりすると、接続詞がふんだんに盛り込まれる。代表格は「そして」。ちっとも「そして」じゃないところに「そして」がくるのだ。いわゆる「そして文」というやつ。 そういった場合は論外として、文章に接続詞は必要であると私は考える。なぜなら、接続詞を立てると論理が立つ。そこまでの文と、それ以後の文の因果関係が明確になる。 「だから」「また」「そして」「しかし」「だが」「けれども」――他人になにかを訴えようとする時、説得しようとする時、主張しようとする時、接続詞は必要不可欠だ。
感動詞が発され、接続詞が生まれるまでの歴史の中で、回文ができた(回文の存在に気付いた)のはいつ頃なのか。感動詞が生まれたであろう原始の時代には、回文などある訳がない。まず、生活に必要な言葉だけがあり、後に語彙が増えていく。それは幼児の言語成長過程を見ても明らかなことである。
品詞の組み合わせ(文章)で回文は作られる。その作られた回文というのは、人間の生活に必要なものではない。原始の頃に回文なんぞ遊んでいる言葉の余裕はない。なにも原始まで遡及しなくともよい。感動詞から接続詞に至るまで、考えを述べ、生きゆくために喋る――それが本来の言葉の形だったはずである。 どんなことでも、その分野に余裕のない時代は「生きていくためのもの」としての役割だけが課せられる。例えば、食べ物にしても、昔は生きていくために食べていた。しかし今は、楽しむためにも食べる。つまり、贅沢である。 文章においても、言葉それ自体を楽しむようになったのは「生きていくためだけ」を卒業したからだ。これもまた贅沢である。言葉の贅沢。回文はその最たるものではないだろうか。
贅沢な私は、今日も言葉を用いて贅沢な遊びをする。 「検便け?」 ……失礼。(了)
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※後に多くの回文本を出版する運びとなりました。感謝。