エッセイ

 

 不知火(しらぬい)という名の柑橘を買った。不知火とは、夜、海上に火の玉のような明かりが灯り揺らめく現象だ。正体は蜃気楼らしいが、その昔は妖怪だと思われていた。暗黒の海にたゆたう怪火。陸から望めば、さぞ妖しく美しいことだろう。
 柑橘「不知火」は形や色から、この怪火の名がつけられたのだろう。確かに、木に実る柑橘の類を明かりのようだ。しかし、焚火だとか蛍だとか太陽だとかの微笑ましいイメージの明かりではなく、怪火の名前をつけたところにセンスを感じる。私はこの柑橘がすっかり好きになってしまった。

 私は言葉フェチのせいか、名前だけでその存在を好きになってしまうことは珍しくない。食べ物なら乾物の食材「春雨」や、おから料理の「卯の花」などがそうだ。植物も良い名をもつものはたくさんある。これからの季節は「露草(つゆくさ)」だろうか。露草(和名)は別名「月草」とも呼ばれ、和名・別名ともにその儚さにため息が出る。

 ところで、不知火の糖度が高くなり、一定の水準を満たしたものは「デコポン」と名づけられて出荷されるらしい。ほほう、デコポンが不知火の一種だとは知らなかった。不知火よりひとつ格上のものがデコポンということになる。

 それにしてもデコポン。デコポンか。チャーミングな少女のニックネームのようだ。広いおでこにはちきれんばかりの笑顔。失敗した時はちょろっと舌を出す、お転婆な娘。妖艶な怪火から、元気な少女に変身とは一体どうなっているのか。この変身譚もまた妖怪のなせる業だろうか。

 私は酸味の強い柑橘が苦手なので、食べ比べればきっとデコポンの方が美味しいと感じるだろう。しかしデコポンが不知火より甘くて格上だったとしても、やはり不知火という名にロマンを感じるし、その名に惹かれて好きにもなった。いくら酸っぱくてもね。(了)